はじめに、事件によって亡くなられた方々に心から哀悼の意を表するとともに、被害に遭われた方々、ご家族、施設関係者の皆様に、改めてお見舞い申し上げます。
この事件を振り返る際には、防犯上の課題だけでなく、すべての人の命と尊厳が等しく守られる「ともに生きる社会」を実現するという視点を、決して忘れてはなりません。
私は、神奈川県警察に39年間勤務し、最終階級は警視として、重大事件・事故への対応や現場指揮、関係機関との調整に携わってきました。
本記事では、捜査上の秘密や個人情報には一切触れず、厚生労働省などが公表している資料と、警察実務・危機管理に関する一般的な知見に基づいて、福祉施設、医療機関、学校、企業が確認すべき防犯対策と初動対応について解説します。

この記事の要点
- 防犯カメラや施錠などの設備だけで、あらゆる侵入を防ぐことはできません。
- 不審者情報や具体的な脅威を把握した場合は、組織内だけで抱えず、警察などの関係機関と早期に連携する必要があります。
- 緊急時に必要なのは、分厚いマニュアルではなく、職員が直ちに確認できる役割分担と行動手順です。
- 通報・情報伝達・避難誘導などは、実際に身体を動かす訓練によって検証することが重要です。
- 防犯対策は、施設を閉鎖的にすることだけを目的とせず、利用者の尊厳や地域に開かれた施設運営との両立が必要です。
津久井やまゆり園事件から10年を迎えて
2016年7月26日、相模原市の障害者支援施設「津久井やまゆり園」に元職員が侵入し、入所者19人の命が奪われ、多くの方が負傷する事件が発生しました。
事件後、国は「相模原市の障害者支援施設における事件の検証及び再発防止策検討チーム」を設置し、同年9月に中間とりまとめ、12月に報告書を公表しました。
報告書では、次のような課題が取り上げられています。
- 共生社会の推進
- 措置入院中の診療内容の充実
- 退院後の医療等の継続的な支援
- 関係機関による情報共有
- 社会福祉施設等における防犯対策
2026年7月には、事件から10年の追悼行事と「誓いの集い」が、神奈川県、相模原市、社会福祉法人かながわ共同会の主催によって行われました。
事件を風化させず、亡くなられた方々に思いを寄せながら、私たちは今後の安全と共生社会の在り方を考え続ける必要があります。
施設防犯は「設備」と「人」の両方で考える
防犯カメラ、施錠設備、インターホン、非常通報装置などは、施設の安全を確保するうえで重要です。
しかし、設備を導入しただけで、防犯対策が完了するわけではありません。
特に次のような状況では、設備だけに依存した対策には限界があります。
- 夜間など職員数が少ない時間帯
- 来訪者と職員の出入りが多い施設
- 建物の構造や職員体制を知っている者による侵入
- 複数の場所で同時に対応が必要となる状況
- 設備が故障又は停電した場合
- 職員が異常を認識しても、組織内で情報が止まってしまう場合
厚生労働省の通知でも、防犯設備による補完・強化だけでなく、職員の役割分担、警察等への通報体制、避難経路、地域や関係機関との連携などを点検することが示されています。
大切なのは、「侵入を完全に防ぐ」という一つの対策だけに頼るのではなく、異常の早期発見、情報伝達、通報、避難、被害拡大の防止を重ね合わせることです。
情報連携の空白を作らない
厚生労働省の中間とりまとめでは、事件を起こした元職員の措置入院が解除された事実について、行政から施設へ情報提供されていなかったことが確認されています。
一方で、施設は2016年3月2日に元職員を施設付近で目撃して退院を把握し、3月4日に警察へ連絡しています。翌3月5日には、110番通報時に当該施設からの通報であることを警察が認識できる仕組みへの登録や、防犯指導も行われました。
この経過から学ぶべきことは、単に「情報共有がなかった」と評価することではありません。
個人情報や人権への配慮を前提としながら、具体的な危害予告や不審行動などを把握した場合に、誰が、どの情報を、どの段階で、どの機関へ伝えるのかを、平時から決めておくことが重要です。
施設内においても、次のような状態がないか確認してください。
- 一部の管理職しか重要な情報を知らない
- 夜勤者へ注意事項が引き継がれていない
- 不審者情報を記録する様式がない
- 警察へ相談する判断基準が決められていない
- 緊急連絡網が更新されていない
- 「誰かが連絡するだろう」という状態になっている
情報は、保有しているだけでは安全対策になりません。必要な範囲で共有され、具体的な行動につながって初めて危機管理として機能します。
施設・企業が見直すべき3つの危機管理対策
1.緊急時の行動を1枚にまとめる
緊急事態が発生した直後に、分厚いマニュアルを最初から読む余裕はありません。
少なくとも、次の内容を1枚のフローチャートやチェックリストにまとめておくことが有効です。
- 誰が110番通報するのか
- 通報時に何を伝えるのか
- 誰が施設内へ危険を知らせるのか
- 利用者や来訪者をどこへ誘導するのか
- どの出入口を使用又は閉鎖するのか
- 負傷者が発生した場合に誰が119番通報するのか
- 警察や消防を誰が誘導するのか
- 事件後の家族・関係機関への連絡を誰が担当するのか
職員の氏名だけを記載すると、休暇や異動によって機能しなくなる可能性があります。「施設長」「夜勤責任者」「受付担当」など、役割でも整理しておくことが重要です。
2.避難と被害拡大防止を優先する
凶器を持った侵入者に、職員が無理に立ち向かうことは大変危険です。
状況によって対応は異なりますが、基本的には、侵入者から距離を取り、利用者を可能な範囲で安全な場所へ誘導し、扉や備品などを利用して侵入を遅らせ、速やかに警察へ通報することを優先します。
さすまたなどの防犯器具についても、設置するだけでは十分ではありません。使用者が危険性と限界を理解し、警察など専門機関の指導を受けながら、複数人での連携や退避を含めた訓練を行う必要があります。
施設の構造、利用者の障害特性、移動能力、夜間の職員配置などによって適切な対応は異なるため、一律の方法を当てはめないことも重要です。
3.シナリオ型訓練で計画を検証する
訓練は、予定された筋書きをなぞるだけではなく、実際に起こり得る条件を設定して行うことが重要です。
例えば、次のような想定が考えられます。
- 夜間に不審者が侵入した
- 正面玄関以外から侵入された
- 通報担当者がその場にいない
- 館内放送が使用できない
- 利用者の一部がすぐに移動できない
- 複数の職員が同時に異なる情報を受けた
- 警察へ建物の入口や侵入者の位置を正確に説明できない
訓練後は、「予定どおり実施できた」で終わらせず、通報までの時間、情報伝達の正確性、避難誘導の問題、扉や設備の不具合などを記録し、マニュアルを修正します。
訓練は職員を驚かせるために行うものではありません。問題点を安全に発見し、実際の緊急時に迷いを減らすために行うものです。
防犯対策と地域に開かれた施設運営を両立する
福祉施設の防犯を考えるとき、施設を外部から完全に隔離すればよいという考え方には注意が必要です。
厚生労働省の通知では、防犯に係る安全確保と、地域に開かれた社会福祉施設であることの両立が求められています。
日頃から地域住民、自治会、警察、消防、医療機関、行政機関などと顔の見える関係を築くことは、異常の早期発見や緊急時の支援にもつながります。
施設利用者の自由や尊厳を過度に制限することなく、施設ごとの特性に応じた安全対策を考えることが必要です。
精神障害と犯罪を安易に結び付けない
本事件を検討する際には、精神障害や措置入院歴のある方々を、危険な存在であるかのように一括して捉えてはなりません。
厚生労働省の中間とりまとめも、本事件を「極めて特異なもの」と位置付けています。
事件の再発防止を考えることと、精神障害のある方への偏見や差別を防ぐことは、両立させなければなりません。
防犯対策の目的は、特定の属性を持つ人を排除することではなく、具体的な危害予告、不審行動、施設の脆弱性など、確認できる事実に基づいて安全を確保することです。
一般的な防犯訓練と実践型研修の違い
一般的な訓練
- マニュアルの読み合わせが中心
- 予定された手順を確認する
- 設備の設置状況を確認する
- 全員が結末を知っている
- 実施したこと自体が目的になりやすい
実践型の危機管理研修
- 施設ごとの構造や職員配置を前提とする
- 通報、情報伝達、避難誘導を実際に行う
- 一部に想定外の条件を加える
- 警察が必要とする情報を伝えられるか確認する
- 訓練後に問題点を記録し、計画を修正する
重要なのは、訓練を難しくすることではありません。限られた人員と設備の中で、現実に実行できる手順を見つけることです。
よくある質問
防犯カメラやオートロックを導入すれば十分ですか?
設備は重要ですが、それだけで十分とはいえません。異常を発見した後の情報伝達、110番通報、避難誘導、警察の案内などを含めて、組織全体で対策を構築する必要があります。
どのような施設が危機管理研修の対象になりますか?
福祉施設、医療機関、学校、保育施設、自治体、一般企業、商業施設などが対象となります。利用者の特性、建物の構造、職員配置、営業時間などに応じて研修内容を調整します。
さすまたを設置すれば、不審者を取り押さえられますか?
さすまたは、設置しただけで安全を確保できるものではありません。単独で無理に取り押さえようとすると、かえって危険になる場合があります。警察などの指導を受け、距離の確保、退避、複数人での連携を含めて訓練することが重要です。
マニュアルはありますが、訓練も必要ですか?
必要です。訓練によって、連絡先の誤り、役割の重複、鍵や扉の問題、避難経路の障害物など、文書を読むだけでは分からない課題が見つかります。
全国への出張研修は可能ですか?
たてかわ行政書士事務所では、神奈川県相模原市を拠点として、全国の施設・企業・団体を対象とした危機管理、防犯、交通安全に関する講演・研修のご相談を承っています。
事件を風化させず、実行できる備えへ
津久井やまゆり園事件から10年という節目に、私たちが改めて確認すべきことは、設備、情報、人の動きを切り離して考えないことです。
どれほど立派なマニュアルがあっても、緊急時に職員が動けなければ機能しません。一方で、現場の努力だけに依存し、必要な設備や組織的な支援を整えないことも適切ではありません。
防犯設備、情報共有、関係機関との連携、職員研修、利用者の尊厳への配慮を組み合わせ、施設ごとに継続して見直すことが重要です。
たてかわ行政書士事務所では、元神奈川県警視としての経験を基に、施設・企業の実情に合わせた危機管理、防犯、初動対応に関する講演・研修を行っています。
「現在のマニュアルが実際に機能するか確認したい」
「職員が緊急時に動けるか不安がある」
「施設の構造や夜間体制に合わせた訓練を検討したい」
このような課題がございましたら、お問い合わせフォームからご相談ください。
ご相談の段階で、研修の契約を強制することはありません。施設の業種、規模、参加人数、ご希望の研修内容を確認したうえで、実施方法をご案内します。
参考にした公的資料
相模原市の障害者支援施設における事件の検証及び再発防止策検討チーム
「中間とりまとめ~事件の検証を中心として~」
厚生労働省、2016年9月14日
https://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-12601000-Seisakutoukatsukan-Sanjikanshitsu_Shakaihoshoutantou/0000139985.pdf
相模原市の障害者支援施設における事件の検証及び再発防止策検討チーム
「報告書~再発防止策の提言~」
厚生労働省、2016年12月8日
https://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-12201000-Shakaiengokyokushougaihokenfukushibu-Kikakuka/0000145258.pdf
「社会福祉施設等における防犯に係る安全の確保について」
厚生労働省、2016年9月15日
https://www.mhlw.go.jp/content/12204500/0000137379.pdf
「津久井やまゆり園事件から10年の追悼行事」
神奈川県、2026年
https://www.pref.kanagawa.jp/docs/dn6/cnt/f536644/r8tsuitou.html
※各資料の内容は公開日時点のものです。施設の防犯計画を策定する際は、最新の行政通知、所轄警察署の指導、施設ごとの設備・人員・利用者特性を確認してください。
執筆者
行政書士 建川一茂
たてかわ行政書士事務所代表
元神奈川県警察官・元警視。在職39年間にわたり、警察実務、現場指揮、重大事件・事故対応、関係機関との調整などに携わる。
保有資格:行政書士、2級ファイナンシャル・プランニング技能士、警備員指導教育責任者
専門分野:危機管理、防犯、交通安全、企業・施設向け研修、行政法務
所在地:神奈川県相模原市南区新戸3021番地8
電話:050-1721-2633
免責事項
本記事は、公表されている資料及び一般的な危機管理・防犯上の知見に基づく情報提供を目的としています。個別施設における安全を保証するものではなく、具体的な対応は施設の構造、人員、利用者の特性、発生時の状況によって異なります。
個別具体的な法的紛争、損害賠償、示談交渉、訴訟等については、弁護士その他の適切な専門家へご相談ください。







